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能楽(金春)史年表

 701 (大宝 1) 散楽戸が設置される。

 863 (貞観 5) 神泉苑の御霊会に猿楽奉仕。猿楽の初めての祭礼参仕となる。

 869 (貞観11) 興福寺西金堂で修二会が始まり、これに参勤した猿楽が後の薪猿楽へ発展。

1136 (保延 2) 春日若宮祭始まる。田楽、猿楽も参仕。

1255 (建長 7)  「薪猿楽」という言葉が初めて文献に現れる。すでにこの年薪猿楽は御社(若宮)でも演じられている。

1283 (弘安 6)  春日若宮臨時祭に翁猿楽参加。

1333 (元弘 3)  観阿弥、大和山田猿楽の三男として生まれる。

1363 (貞治 1)  世阿弥がこの年か翌年に生まれる。

1375 (永和 1)  この年か前年、観阿弥が12歳の世阿弥を伴い、今熊野で猿楽を興行。この時足利義満が初めて猿楽を見物し、以後猿楽の地位が飛躍的に向上する。

1424 (応永31)  金春大夫(禅竹)京都八条坊門で勧進能を催す。

1428 (正長 1)  世阿弥、金春氏信(禅竹)に『六義』『拾玉得花』を相伝。すでに氏信は世阿弥の女婿だったらしい。

1434 (永享 6)  世阿弥、佐渡に配流。

1466 (文正 1)  近江坂本で金春大夫元氏(宗筠)勧進能。禅竹、『六輪一露秘注(文正本)』を著述。

1467 (応仁 1)  応仁の乱勃発。その後猿楽は貧窮することとなる。

1505 (大正 2)  金春大夫元安(禅鳳、粟田口で四日間の勧進能を興行。

1546 (天文15)  足利義輝元服祝賀能に観世大夫元忠・金春大夫喜勝ら参仕。

1560 (永祿 2)  薪猿楽役者がそろわず中止。以後30年程は金春一座の参勤か中止が多くなる。若宮祭も同様。

1588 (天正16)  本願寺の坊官下間少進(金春流)、この頃から活発な演能を展開。

1593 (文祿 2)  豊臣秀吉、肥前名護屋に金春安照はじめ四座の役者や手猿楽(素人役者)を呼び寄せて、演能させる。秀吉の後援で当時は金春流が隆盛。秀吉より、この年から四座の役者に知行や扶持米が与えられる。

1595 (文祿 4)  豊臣秀次が金春流の102番を対象曲とし、五山の僧らに『謡之抄』の編纂を命じる。

1596 (慶長 1)  下間少進、『童舞抄』、『舞台之図』、『叢伝抄』を著述。

1600 (慶長 5)  日本初の刊行謡本である車屋本(金春流謡本)を、鳥養道噺が刊行開始。翌年天覧に供する。

1604 (慶長 9)  秀吉の七回忌の豊国神社臨時祭に、四座立合「翁」や新作能(金春流では「橘」)が演じられる。

1608 (慶長12)  江戸城本丸と西丸の間で、観世・金春立合の勧進能が四日間開催され、家康・秀忠も見物した。

1628 (寛永 5)  金春大夫重勝、浅草で勧進能に参勤。

1645 (正保 2)  竹田権兵衛安信(金春分家初代)、京都二条河原で四日間の勧進能を興行。

1665 (寛文 5)  金春大夫元信、本所で勧進能に参勤。

1698 (元祿11)  刊行謡本の数は500番を越える。

1868 (慶応 4)  徳川幕府崩壊。五座の能役者は扶持を離れる。

1870 (明治 3)  薪猿楽、若宮祭は金春流だけで執行。

1878 (明治11)  明治天皇、青山大宮御所に能舞台を造営。翌年観能した岩倉具視に能の保存を勧告される。

1880 (明治13)  薪猿楽、金春流や大蔵流茂山家の出演により、「薪能」の名で再興。

1935 (昭和10)  海外紹介映画「葵上」(シテ櫻間金太郎・金春流)が制作される。

1941 (昭和16)  世阿弥自筆の伝書、書状を含む膨大な金春家旧伝文書が、生駒宝山寺で発見される。

1945 (昭和20)  現(社)能楽協会が創設される。

1955 (昭和30)  世阿弥の伝書『拾玉得花』が宗家書庫より金春晃実により発見される。

1964 (昭和39)  禅竹の『明宿集』が発見される。

1983 (昭和58)  東京千駄ヶ谷に国立能楽堂が建設される。

1985 (昭和60)  銀座金春通りにて、金春祭りが始まる。

1986 (昭和61)  社団法人金春円満井会設立。

2000 (平成12)  豊公能十番の内、未発見曲の一つであった「この花」が金春安明により発見され、翌年上演される。

2004 (平成16)  秀吉七回忌に上演された「橘」が400周年として再演される。

2006 (平成18)  金春安明、八十世宗家を継承。

2011 (平成23)  公益社団法人として設立登記。

 

(参考図書 岩波講座 能・狂言)